2歳で原発から逃れてきた、ある双子の姉妹の現実。
犬の散歩で立ち寄る公園に加わった、2歳の双子の女の子達は、嘘みたいに可愛くて、瞬く間に人気者になった。
ふたりが原発から逃れて来たのだと知ったのは、ずっと後のことだが。
帰還困難区域から
ふたりの家は、帰還困難区域に隣接していた。
年老いた祖父母と両親、小学生の姉と、幼稚園に通う双子の姉妹。
家に避難指示は出されていなかったが、順番待ちの末にようやく手にした線量計には、2歳の幼児に浴びせたくないような数字が出ていた。
食べるものに特別こだわり、子供の体に良い、無農薬の野菜しか与えてこなかった母親は、あれだけ信頼して食べていた近隣の農家の野菜を、食べられなくなった。
水も信頼できず、ウォーターサーバーを買ったが、風呂の水までは買うわけにはいかず、軽くすすぐだけで、すぐに双子を風呂から出した。
そんな生活が、長く続くはずはない。
はずはないが、周囲では多くの人が、家族や知人縁者を亡くしている。全員無事なその家族が、文句など言えるはずがない。
引っ越そう、ここには安心できる水も食べ物もない。通販しても、届くまで時間がかかりすぎる。
はじめは几帳面だと相手にしなかった父親も、次第にやつれていく妻や、文字通りお腹を空かせた双子達を見て、転居を決意した。
家は、祖父母が動かなかったし、地価も下がって売れたものではなかったので、そのまま残した。
まだ、介護の必要のない祖父母。復興し、線量が下がるまでなら大丈夫だろう。
そう、思っていた。
借家での生活
神奈川県内に移り住んだのは、放射能を避けながら、福島に残して来た両親の元に通うためだ。
安全な水と食材、そこそこの自然の中で、双子はのびのびと育った。小学生の姉だけが不登校の兆しを見せたが、大丈夫だろうと思っていたのだが。
姉の不登校は続き、中学生になった頃には、両親とひとことも喋らなくなっていた。
だがある日、母親は、姉が妹達に言い聞かせていた言葉を聞く。
「おじいちゃんと、おばあちゃんを残して、私達だけが安全な場所にいる。こんなのはおかしい。若い私達は、復興の為に自分の力を使わなきゃならないのに」
「あんた達は、ママみたく、卑怯になっちゃダメだよ」
ただ、子供の健康を思って逃げてきただけなのに。祖父母だって誘ったし説得した。でもついてこなかったのだ。仕方ないじゃないか。私のせいじゃない。
母親は鬱病になった。そして同じ頃、福島に残してきた祖母が、寝たきりになった。
祖父母の介護のために
福島に残った祖父母は、震災前までの生活を、極力変えずに維持しようとしていた。
日常を維持したかった。取り戻したかった。皆が皆、前向きに復興に向かえたわけではないのだ。同じ経験をしていない私には、責められない。
だがある日、祖父の徘徊が始まった。祖母は唯一残った伴侶の介護を始めたが、息子夫婦に助けは求めなかった。
若い人には、若い人なりの暮らしをすればいいのだ。定期的に、復興ボランティアにも参加してくれている。十分じゃないか。そう思っていた。
だが、徘徊する夫を探しに出て、町に残ったのが老人ばかりという現実に、文字通り目が眩んだ。
自分が倒れたのだと知ったのは病院のベッドの上で、腰の骨を骨折しており、完治はほぼ不可能だと言われた。それでも、デイサービスを頼んで頑張ろうと思った時、警察が、保護した夫を連れて、病室に入ってきた。
病院でがなりたてる夫。駆けつける看護師と、なだめる警察官。
心が折れた瞬間だった。泣きながら、震災後初めて、自分から息子に電話をかけた。
もっと苦しい人がいるから
今、双子とその姉、両親は、茨城県内に住んでいる。
祖父母は福島の家を離れ、幸運にも、同じ介護施設に入所できた。そこに通うためだ。
場所が茨城なのは、被災地や、置いてきた家に通うため。線量の高い地域を迂回して通うことにはなるが、それまでの借家よりは近くなった。
父親は転職し、給料は下がったが、介護に当てる時間が取れた。
母親は鬱病を患い、遠方から無農薬野菜を取り寄せながら、なんとか家事をこなしている。
姉は大学に進学して一人暮らしを始め、環境についてを学んでいる。母親とは、最初の転居以降、話していない。
双子は、自分達が何に翻弄されたかを薄々感じながら、元気に小学校に通っている。
全員の人生が、あの日に狂った。それでも、誰も文句を言わないのは、ひとえに、
「もっと苦しい人がいるから」
確かにそうだ。だが、それでも、彼らの苦しみも、決して甘いものではない……。